サンクト・ペテルブルクの歴史地区と関連建造物群

登録年
1990年
所在国
ロシア連邦
登録区分
文化遺産
地域
ヨーロッパ
登録基準
(i) (ii) (iv) (vi)

基本を学ぶ

どこにあり、何が登録されたのか — 首都をやめたことが完全性の理由になる

ロシア連邦。ネヴァ川の河口がフィンランド湾に出る場所です。

本体 3,934.1 ha
緩衝地帯 一覧に行が無い(本文は将来形で書く)
登録 1990年、基準 (i)(ii)(iv)(vi)=4つ
軽微な境界変更 2013年
dossier 540bis
シリアル はい(`Serial: yes`)
保存状況報告 10年分(1993・2006-2012・2014・2026年)
ほかの保全の仕組み 記載なし
GIS データ 未受領
ページのタブ `Assistance`(国際援助)がある
`Activities` 2件(世界遺産都市プログラム/「サンクト・ペテルブルクで若者を自らの文化遺産と結ぶ」)
訳のある言語 8つ(日本語を含む)

基準(i)(ii)(iv)(vi)の組み合わせは、アーヘン大聖堂3・グアナフアト1216・ヴァティカン市国286 に続いて231件で4件目です。

首都をやめたことが完全性の理由として書かれる

サンクト・ペテルブルクの都市圏の全体、とくにその歴史地区は、その完全性を保全してきた。これは、歴史地区の発展が1913年に実際上やんだこと、そして1918年に首都がモスクワへ移されたことに関わる。その結果、新しい建設の事業と産業地帯の成長は歴史地区の限界の外で起きた。

都市が首都であることをやめたために歴史地区が残ったと書かれます。

同じ章のシェーンブルン786 も1918年に「オーストリア共和国の財産になったとき」「時のなかで凍った」と書きます。同じ年に、二つの資産が別の国で、政治の身分が変わったことを保存の理由として書いています。一次資料は互いに触れていないので、結びつきはこちらから足しません。

完全性の続きは脅威を並べる

脅威
高い建物と不適切な開発 「資産の周りの……が論点であり続けてきた」
交通 —
大気汚染 —
相対湿度 「資産は……の影響にも苦しんでいる」

相対湿度が脅威として挙げられる資産は少数です。完全性は「その計画された配置、輪郭、遮られない眺めの機会の保全を通じて確かにされる」とされます。

四つの基準 — 都市の名が三つ出てくる

基準 中身
(i) 「都市設計の分野において、サンクト・ペテルブルクは、計画の野心、計画の一貫性、実行の速さにおいて唯一の芸術の達成を表す」。「1703年から1725年まで、ピョートル大帝は沼地、泥炭地、岩の景観から首都のための石と大理石の建築様式を持ち上げ、それをヨーロッパ全体でもっとも美しい都市にしたいと望んだ」
(ii) ラストレッリ、ヴァラン・ド・ラ・モット、キャメロン、リナルディ、ザハロフ、ヴォロニヒン、ロッシ、モンフェランらが設計した総体が「18世紀と19世紀のロシアとフィンランドにおける建築と記念碑的芸術の発展に大きな影響を与えた」。「首都の規範の価値は、科学アカデミーの設立、続いて美術アカデミーの設立によって初めから高められた」
(iv) 「推薦された文化の資産は、バロックの皇帝の住居の優れた例をサンクト・ペテルブルクの建築の総体と結ぶ」。ペテルゴフ(ペトロドヴォレツ)とツァールスコエ・セロー(プーシキン)の宮殿は「第二次世界大戦のあいだの破壊に続いて修復された」
(vi) 「サンクト・ペテルブルクは二度、普遍的な意義を持つ出来事と直接かつ有形に結びついた」

基準(ii)がほかの都市の名を挙げる

サンクト・ペテルブルクの都市の模型は、エカチェリーナ2世、アレクサンドル1世、ニコライ1世のもとで完成され、1812年の火事に続くモスクワの再建のあいだ、そして帝国の南部におけるオデッサやセヴァストポリのような新しい都市のために使われた。

オデーサ1703 は別の世界遺産ですが、540 のページは「世界遺産の」とは書いていません。一次資料が挙げている事実までを記録し、世界遺産であることをこちらから足しません。

基準(vi)に都市の名が三つ出てくる

名 いつ 一次資料の書き方
サンクト・ペテルブルク 1703年から1725年 建設が「ロシアの西洋世界への開放と、国際の舞台におけるツァーリの帝国の出現を象徴する」。元老院広場のファルコネ作のピョートル大帝の騎馬像が想起させる
ペトログラード 1917年 「ボリシェヴィキ革命がペトログラードで勝利した(市は1914年に改名されていた)」
レニングラード — 「オーロラ巡洋艦と、後に十月の大社会主義革命の博物館となったマティルダ・クシェシンスカヤの邸宅は、レニングラードの中心において、ソ連の形成の象徴である」

一つの基準の文に、同じ都市の三つの名が出てきます。改名の年が書かれているのは1914年の一つだけです。ほかの改名の年は書かれていないので補いません。

説明文も「『北のヴェネツィア』」「後にレニングラードとして知られた(旧ソ連において)」と書き、資産名そのものは「サンクト・ペテルブルク」です。25章のチャトラパティ945 のように旧名が資産名の中に入る形ではありません。

概要が都市そのものを描く — 数と比喩が並ぶ

数

もの 数
橋 400を超える(説明文)
都市計画の始まり 1703年(ピョートル大帝のもとで)
ピョートル大帝の治世 1682-1725年
ネフスキー大通りが東西の主軸になった年 1738年
アンナ・イオアノヴナ 1730-1740年
エリザヴェータ・ペトロヴナ 1741-1762年
エカチェリーナ2世 1762-1796年
封鎖 1941-1944年。「およそ100万の人の命が失われた」

比喩と評語がそのまま書かれる

語
「18世紀のもっとも偉大な都市の創造」 概要
「驚くほど短い期間に」建てられた 概要
「洪水から守られていない低地の上で、材料と働き手の深刻な不足に直面して」 概要
「構造の絶対の階層」 概要
「比べるものがない歴史的都市景観」 概要
「その都市の『皇帝の』精神、そのゲニウス・ロキ(genius loci)」 概要
「満々と流れるネヴァ川は、都市にその主要な広場と主要な大通りになった」 概要
「『厳しさと優美の眺め』をもって」 概要
「チュートン的な統一をもつ総体としての統一された建設」 概要

「チュートン的な統一」という語がロシアの都市について使われます。理由は書かれていないので推測せず、語をそのまま引いて出どころを添えます。

総体が重なり合う体系として書かれる

都市の織物は総体で豊かに織られている。これらの集まりは互いに結び合って、どの要素も単独で存在せず、その環境から孤立していない複雑な多層の体系を作る。この体系のすべての構成要素の包括的な価値は、調和した全体への組み込みから生じる。 まさにこのために、サンクト・ペテルブルクは、建築様式の急速な変化にもかかわらずその論理の完全性を保全した都市計画の歴史における唯一の壮大な事業であることに疑いなくとどまっている。

構成要素の価値が「全体に組み込まれていること」から生じると書かれます。25章のセビーリャ383 が「三つの建物は市における唯一の現れではない」と書いたのとは逆の向きです。

原文に別の文字体系が混じる

原文のまま 読めること
`Sсhlisselburg` `c` の位置にキリル文字の `с` が入っている
`Tsarskoуe Selo` `y` の位置にキリル文字の `у` が入っている(同じページの基準(iv)では `Tsarskoye Selo`)
`the world-renowned of the “Venice of the North”` 英文が壊れている

綴りを直さず、そのまま引いて「原文のまま」と添えます。ラテン文字とキリル文字が混じる例は、これまで読んだ231件でここだけです。

保護管理 — 法が国の名ごとに並び、緩衝地帯は将来形

法が「どの国のものか」つきで並ぶ

法 日付・番号 どの国
「歴史と文化の記念物の保存と利用について」 1976年10月19日 No. 4962-IX ソ連(USSR)
「歴史と文化の記念物の保存と利用について」 1978年12月15日 ロシア共和国(RSFSR)
「レニングラードの中央地区における保護区域の歴史と文化の記念物を統合する境界の承認について」 レニングラード市議会執行委員会決定 No.1045、1988年12月30日 —
レニングラードとレニングラード州の発展のためのマスタープラン 1987年に作られ、2005年までの期間について。ソ連の指導部が承認 —

「登録の瞬間以来、遺跡はソ連とロシア共和国の法に従って保護された」と書かれます。いまは存在しない国の法が、保護の経緯として本文に残ります。

1987年のマスタープランの期間(2005年まで)は過ぎています。25章のカザン980 の「2006-2020年の構想」と同じ型で、231件で二つ目です。一次資料は後継の文書に触れていないので「期限が過ぎている」までを記録します。

近年の法が「可決と改正」の年の対で並ぶ

法 年の対
「ロシア連邦の(歴史と文化の)文化遺産について」 2002年、2014年
ロシア連邦都市計画法典 2004年、2014年
「サンクト・ペテルブルクのマスタープランについて」 2005年、2013年
レニングラード州とサンクト・ペテルブルクの地域の文化遺産保護法 2006年、2012年/2007年、2014年
「サンクト・ペテルブルクの領域における文化遺産の保護の区域の境界と……」 2008年、2014年
「サンクト・ペテルブルクの土地の利用と開発の規則について」 2009年、2010年

「上記のすべての文書が、世界遺産資産の境界の内側における都市の開発と土地の利用を規制する」とされます。

緩衝地帯が将来形で書かれる

緩衝地帯が低いスカイラインを守り、歴史地区におけるパノラマと構成として完結した眺めの不可侵性を確かにするだろう——この区域の高層の建物の押しつけへの感受性を考慮に入れながら。

どこ 緩衝地帯
一覧 行が無い
保護管理の節 「緩衝地帯が……守るだろう」(将来形)

26章の4件で、一覧と本文の組み合わせが四通り出ます。

遺産 一覧 本文
ドロットニングホルム559 数がある 「提案されており」
シェーンブルン786 数がある 「保護区域が緩衝地帯をも画している」
ポツダムとベルリン532 行が無い 「契約と宣言が署名された」
サンクト・ペテルブルク540 行が無い 「守るだろう」

管理計画はまだ無い

計画 「遺跡管理計画の準備と発展、そして遺跡のための統一された管理の体系の確立が進行中である(is underway)」
協定 2014年10月に文化省、サンクト・ペテルブルク政府、レニングラード州政府のあいだで協力についての協定が署名された
会議 調整会議(The Coordination Council)が設立され、その任務の一つが「管理計画の発展と実施に寄与すること」
財源 「毎年、歴史と文化の記念物の大きな修理と修復の仕事のために資金が割り当てられる」
責任 歴史地区とレニングラード州の行政境界の内側のものの管理と監視は連邦と地域の当局の共同の責任。「両者のあいだの調整を改善するための措置が取られている」

「管理計画がある」ではなく「準備と発展が進行中である」と書かれます。

お知らせに、特定の建設への反対が残る

年月日 お知らせ
2008年1月18日 「UNESCO 世界遺産センターがサンクト・ペテルブルクの歴史地区における塔の建設への反対を確認」
2010年6月3日 「UNESCO が、サンクト・ペテルブルクの保存のためのロシア連邦大統領による支持を歓迎」
2018年4月30日 国際ジャズの日
2020年10月26日 「動画:遺跡管理者が Covid-19 について報告」

特定の建設への反対が、お知らせとしてページに残る資産です。顕著な普遍的価値の節は塔について書いていないので、お知らせと本文を分けて記録します。

真正性は「高い質の修復と再建の努力が、歴史の文書に基づき、本物の技法と材料を使って成し遂げられた」ことを挙げ、それが「都市圏の全体の文化的景観の完全性を保全する戦略の一部」だとします。

2級で押さえること

本体3,934.1 ha/緩衝地帯は一覧に行が無い(本文は将来形で書く)、1990年登録・軽微な境界変更2013年、基準(i)(ii)(iv)(vi)=4つで231件で4件目(アーヘン大聖堂3・グアナフアト1216・ヴァティカン市国286 に続く。)、dossier 540bis、`Serial: yes`、保存状況報告10年分(1993・2006-2012・2014・2026年)、ほかの保全の仕組みの記載なし・GIS データ未受領、ページのタブに `Assistance` がある、`Activities` 2件、訳のある言語は8つで日本語を含む。首都をやめたことが完全性の理由として書かれる——「これは、歴史地区の発展が1913年に実際上やんだこと、そして1918年に首都がモスクワへ移されたことに関わる。その結果、新しい建設の事業と産業地帯の成長は歴史地区の限界の外で起きた」。同じ章のシェーンブルン786 も1918年に「オーストリア共和国の財産になったとき」「時のなかで凍った」と書き、同じ年に二つの資産が別の国で、政治の身分が変わったことを保存の理由として書いている。一次資料は互いに触れていないので結びつきはこちらから足さない。完全性の続きは脅威を並べる——高い建物と不適切な開発が「論点であり続けてきた」、交通・大気汚染・相対湿度の影響に「苦しんでいる」。相対湿度が脅威として挙げられる資産は少数。完全性は「その計画された配置、輪郭、遮られない眺めの機会の保全を通じて確かにされる」。基準(i)は「都市設計の分野において、計画の野心、計画の一貫性、実行の速さにおいて唯一の芸術の達成を表す」「1703年から1725年まで、ピョートル大帝は沼地、泥炭地、岩の景観から首都のための石と大理石の建築様式を持ち上げ、それをヨーロッパ全体でもっとも美しい都市にしたいと望んだ」。基準(ii)はラストレッリ、ヴァラン・ド・ラ・モット、キャメロン、リナルディ、ザハロフ、ヴォロニヒン、ロッシ、モンフェランらの総体が「18世紀と19世紀のロシアとフィンランドにおける建築と記念碑的芸術の発展に大きな影響を与えた」とし、「首都の規範の価値は、科学アカデミーの設立、続いて美術アカデミーの設立によって初めから高められた」と書く。基準(ii)がほかの都市の名を挙げる——都市の模型が「1812年の火事に続くモスクワの再建のあいだ、そして帝国の南部におけるオデッサやセヴァストポリのような新しい都市のために使われた」。オデーサ1703 は別の世界遺産だが540 のページは「世界遺産の」とは書いていないので、一次資料が挙げている事実までを記録する。基準(iv)は「推薦された文化の資産は、バロックの皇帝の住居の優れた例をサンクト・ペテルブルクの建築の総体と結ぶ」と、登録済みの資産を推薦の語で呼ぶ。ペテルゴフとツァールスコエ・セローの宮殿は「第二次世界大戦のあいだの破壊に続いて修復された」。基準(vi)に都市の名が三つ出てくる——「サンクト・ペテルブルクは二度、普遍的な意義を持つ出来事と直接かつ有形に結びついた」とし、1703年から1725年の建設が「ロシアの西洋世界への開放と、国際の舞台におけるツァーリの帝国の出現を象徴する」(元老院広場のファルコネ作のピョートル大帝の騎馬像が想起させる)、1917年に「ボリシェヴィキ革命がペトログラードで勝利した(市は1914年に改名されていた)」、オーロラ巡洋艦とマティルダ・クシェシンスカヤの邸宅(後に十月の大社会主義革命の博物館)が「レニングラードの中心において」ソ連の形成の象徴である。一つの基準の文に同じ都市の三つの名が出て、改名の年が書かれているのは1914年の一つだけ。ほかの改名の年は書かれていないので補わない。資産名そのものは「サンクト・ペテルブルク」で、25章のチャトラパティ945 のように旧名が資産名の中に入る形ではない。概要が都市そのものを描く——橋は400を超え、都市計画は1703年にピョートル大帝(1682-1725年)のもとで始まり、ネフスキー大通りが東西の主軸になったのは1738年、アンナ・イオアノヴナ(1730-1740年)・エリザヴェータ・ペトロヴナ(1741-1762年)・エカチェリーナ2世(1762-1796年)のもとで記念碑的な壮麗を得た。封鎖は1941-1944年で「およそ100万の人の命が失われた」。比喩と評語がそのまま書かれる——「18世紀のもっとも偉大な都市の創造」「驚くほど短い期間に」「洪水から守られていない低地の上で、材料と働き手の深刻な不足に直面して」「構造の絶対の階層」「比べるものがない歴史的都市景観」「その都市の『皇帝の』精神、そのゲニウス・ロキ」「満々と流れるネヴァ川は、都市にその主要な広場と主要な大通りになった」「『厳しさと優美の眺め』をもって」「チュートン的な統一をもつ総体としての統一された建設」。「チュートン的な統一」がロシアの都市について使われる理由は書かれていないので推測せず、語をそのまま引いて出どころを添える。総体が重なり合う体系として書かれる——「これらの集まりは互いに結び合って、どの要素も単独で存在せず、その環境から孤立していない複雑な多層の体系を作る。この体系のすべての構成要素の包括的な価値は、調和した全体への組み込みから生じる」「まさにこのために、サンクト・ペテルブルクは、建築様式の急速な変化にもかかわらずその論理の完全性を保全した都市計画の歴史における唯一の壮大な事業であることに疑いなくとどまっている」。構成要素の価値が「全体に組み込まれていること」から生じるので、25章のセビーリャ383 の「三つの建物は市における唯一の現れではない」とは逆の向き。原文にラテン文字とキリル文字が混じる——`Sсhlisselburg`(`c` がキリル文字の `с`)、`Tsarskoуe Selo`(`y` がキリル文字の `у`。同じページの基準(iv)では `Tsarskoye Selo`)、そして `the world-renowned of the “Venice of the North”` という壊れた英文。文字体系が混じる例は231件でここだけ。法が「どの国のものか」つきで並ぶ——ソ連の1976年10月19日 No. 4962-IX「歴史と文化の記念物の保存と利用について」、ロシア共和国(RSFSR)の1978年12月15日の同名の法、レニングラード市議会執行委員会決定 No.1045(1988年12月30日)、1987年に作られ2005年までの期間についてソ連の指導部が承認したマスタープラン。いまは存在しない国の法が保護の経緯として本文に残る。1987年のマスタープランの期間は過ぎており、25章のカザン980 の「2006-2020年の構想」と同じ型で231件で二つ目。近年の法が「可決と改正」の年の対で並ぶ——文化遺産法(2002年、2014年)/都市計画法典(2004年、2014年)/マスタープラン法(2005年、2013年)/地域の文化遺産保護法(2006年、2012年/2007年、2014年)/保護区域の境界法(2008年、2014年)/土地利用開発規則法(2009年、2010年)。「上記のすべての文書が、世界遺産資産の境界の内側における都市の開発と土地の利用を規制する」。緩衝地帯が将来形で書かれる——「緩衝地帯が低いスカイラインを守り、歴史地区におけるパノラマと構成として完結した眺めの不可侵性を確かにするだろう」。一覧には行が無い。26章の4件で一覧と本文の組み合わせが四通り出る——559(数がある/「提案されており」)・786(数がある/「保護区域が緩衝地帯をも画している」)・532(行が無い/「契約と宣言が署名された」)・540(行が無い/「守るだろう」)。管理計画はまだ無い——「遺跡管理計画の準備と発展、そして遺跡のための統一された管理の体系の確立が進行中である」。2014年10月に文化省・サンクト・ペテルブルク政府・レニングラード州政府のあいだで協力についての協定が署名され、調整会議が設立されその任務の一つが「管理計画の発展と実施に寄与すること」。「毎年、歴史と文化の記念物の大きな修理と修復の仕事のために資金が割り当てられる」。管理と監視は連邦と地域の当局の共同の責任で「両者のあいだの調整を改善するための措置が取られている」。お知らせに特定の建設への反対が残る——2008年1月18日「UNESCO 世界遺産センターがサンクト・ペテルブルクの歴史地区における塔の建設への反対を確認」、2010年6月3日「UNESCO が、サンクト・ペテルブルクの保存のためのロシア連邦大統領による支持を歓迎」。顕著な普遍的価値の節は塔について書いていないので、お知らせと本文を分けて記録する。真正性は「高い質の修復と再建の努力が、歴史の文書に基づき、本物の技法と材料を使って成し遂げられた」ことを挙げ、それが「都市圏の全体の文化的景観の完全性を保全する戦略の一部」だとする。

準1級 準1級向けに理解を深める

準1級の掲載範囲は確かめていません。準1級の範囲は「日本の全遺産と主要な世界の遺産700件」ですが、どの700件かは公式に出ていません。ここに並ぶのは、ゼミが作ったキーワードの練習(試作46本)で、この記事がどのキーワードに入ったかです。公式テキストの分類ではありません。

この遺産は、準1級のキーワードで4通りに出てきます

キーワードこのキーワードで見るもの本文の手がかり
歴史的な出来事出来事が、その資産とどう結びつけられているか「市は1914年に改名されていた」
歴史上の人物人の名が、その資産でどんな働きをしているか「ラストレッリ、ヴァラン・ド・ラ・モット、キャメロン、リナルディ、ザハロフ、ヴォロニヒン、ロッシ、モンフェランらが設計した総体が」
旧市街「どこまでが旧市街か」を、何が引いているか「その結果、新しい建設の事業と産業地帯の成長は歴史地区の限界の外で起きた。」
学術関連「学術」が、価値の側と守る側のどちらに出るか「科学アカデミー」

準1級は、遺産を1件ずつではなくキーワードで横に読みます。同じ資産が、キーワードごとに別の一文で引かれます。「この遺産はどのテーマか」ではなく、「このキーワードで読むと、この遺産の何が見えるか」で読みます。

キーワードで練習する

級別の確認問題

2級 確認問題

答えを選んでから、正解と解説を開きましょう。

確認1:サンクト・ペテルブルクの完全性の理由として、完全性の節に書かれているのは?

  1. 完全性の理由は書かれていない
  2. 1913年に歴史地区の発展がやみ、1918年に首都がモスクワへ移されたこと
  3. 1918年に首都がこの都市へ移され、以後は国の資金が歴史地区の保存に集中的に投じられてきたことである
  4. 20世紀を通じて新しい建設の事業と産業地帯の成長が歴史地区の内側に集中し、それが結果として古い建物を保護したことである
正解と解説を開く

正解:2.1913年に歴史地区の発展がやみ、1918年に首都がモスクワへ移されたこと

都市が首都であることをやめたために歴史地区が残ったと書かれます。同じ章のシェーンブルン786 も1918年を基準の時点にしています。

確認2:サンクト・ペテルブルクの基準(vi)に出てくる都市の名は?

  1. 都市の名は基準(vi)には出てこない
  2. サンクト・ペテルブルクとレニングラードの二つで、ペトログラードという名は出てこない
  3. サンクト・ペテルブルク、ペトログラード、レニングラードの三つ
  4. サンクト・ペテルブルクの一つだけで、ほかの名はすべて説明文の側に置かれている
正解と解説を開く

正解:3.サンクト・ペテルブルク、ペトログラード、レニングラードの三つ

一つの基準の文に、同じ都市の三つの名が出てきます。改名の年が書かれているのは1914年の一つだけなので、ほかの改名の年は補いません。

確認3:サンクト・ペテルブルクの緩衝地帯について、一覧と保護管理の節に書かれているのは?

  1. 一覧に行は無く、本文は「守るだろう」と将来形で書く
  2. 緩衝地帯についてはどこにも書かれていない
  3. 一覧に3,934.1 ha と載っており、本文もその数を確定したものとして繰り返している
  4. 一覧に行は無いが、本文には署名された契約と宣言の日付が書かれている
正解と解説を開く

正解:1.一覧に行は無く、本文は「守るだろう」と将来形で書く

26章の4件で、一覧と本文の組み合わせが四通り出ます。一覧と本文のどちらかに寄せず、両方をそのまま記録します。

確認4:サンクト・ペテルブルクの管理計画について、保護管理の節に書かれているのは?

  1. 管理計画については書かれていない
  2. 1987年のマスタープランが管理計画にあたり、2005年までの期間についてすでに完全に実施され終わったと書かれている
  3. 文化省と二つの政府が署名した協定そのものが管理計画にあたり、2014年10月から全面的に効力を持っていると書かれている
  4. 準備と発展が進行中である
正解と解説を開く

正解:4.準備と発展が進行中である

「管理計画がある」ではなく「準備と発展が進行中である」と書かれます。調整会議の任務の一つが「管理計画の発展と実施に寄与すること」とされます。

参考資料

確認日:2026年10月28日。世界遺産ゼミは非公式の学習コンテンツです。確認問題は独自に作成しています。特定の試験回への対応は未確定です。

参照した公式教材の版: くわしく学ぶ世界遺産300 <第6版>

この遺産が出題される級は、上のバッジから確認できます。